覚深法親王


人物説明(ウィキより転載)

今回は覚深法親王です。
後陽成天皇の第一皇子に当り、俗名は良仁。

第一皇子で母の身分も低くは無かった為、七歳で親王となり、当時の皇位継承候補者の第一位だったと云えるでしょう。
そのまま何事も無ければ108代天皇として即位していたかも知れません。

第一の転機は弟政仁親王(後の後水尾天皇)が誕生したことでしょう。三宮とは云え、彼の母は近衛家出身の藤原前子(中和門院)であり、
彼女は豊臣秀吉の猶子となって入内していました。
朝野の耳目が政仁に集まっていったのは自然な流れだったと思われます。

豊臣秀吉の死。関ヶ原の戦いでの豊臣家の没落という出来事もこの流れを変えることは有りませんでした。
新しく天下人となった徳川家康も政仁の外祖父近衛前久とは親しく、父後陽成院の意向も働いて、良仁親王は関ヶ原の翌年仁和寺に入ります。

在世中には将軍家光に働きかけて、応仁の乱以降荒れ果てていた仁和寺の復興に尽くされました。

家系を見てみると世の中の秩序が乱れた時代の皇族らしく、堂上・地下・社家以外に畠山管領家・幕府管領の伊勢氏・若狭守護武田家の重臣家など
多様な家系の血が流れているようです。
その中でちょっと意外だったのが蓮如の血を引いていることですね。
親王は女系で蓮如からの血筋を二つ受け継いでいます。

蓮如──┬実如───円如───証如───顕如
────├女────白川雅業──────女───
────└女────中山康親─中山孝親─中山親綱┴中山親子─覚深法親王

2007/12/05/修正(中山孝親の外祖父を正親町公兼へ変更)
2008/03/25/修正(粟屋元子の母を追記)

後柏原天皇 ・・・皇族(後柏原天皇)
後奈良天皇
勧修寺藤子 ・・・藤原北家勧修寺
正親町天皇
万里小路賢房 ・・・藤原北家勧修寺
万里小路栄子
誠仁親王
万里小路賢房 ・・・藤原北家勧修寺
万里小路秀房
万里小路房子
畠山晴熈 ・・・清和源氏足利流畠山氏
畠山氏
後陽成天皇
勧修寺尚顕 ・・・藤原北家勧修寺
勧修寺尹豊
西竹氏 ・・・石清水紀氏田中庶流
勧修寺晴右
伊勢貞遠 ・・・伊勢平氏伊勢氏
伊勢氏
勧修寺晴子
粟屋右京亮 ・・・清和源氏若狭粟屋氏
粟屋元隆
粟屋元子
勧修寺尚顕 ・・・藤原北家勧修寺
勧修寺氏
覚深法親王
中山宣親 ・・・藤原北家中山氏
中山康親
祐心 ・・・藤原北家日野支流本願寺
中山孝親
正親町公兼 ・・・藤原北家正親町氏
正親町氏
中山親綱
五辻富仲 ・・・藤原北家中山流庭田氏
五辻諸仲
五辻氏
中山親子
白川資益 ・・・花山源氏白川伯家
白川資氏
白川雅業
本願寺蓮如 ・・・藤原北家日野支流本願寺
祐心
蓮祐 ・・・伊勢平氏伊勢氏
白川伯氏


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