曼珠院坊官千種家

この千種家は建武新政期に活躍した千種忠顕の末裔にあたります。
忠顕は南北朝の戦いの初期に戦死しますが、その子孫も南朝に身を投じて戦います。南北朝合一後は伊勢北畠氏の与力となります。
その後、北畠氏と連携しつつ伊勢に独自の勢力を築きましたが、北畠滅亡から織田信雄の没落に到る動乱の中で没落しました。
伊勢の国人としての最期の当主千種顕理(富田知信の子?)は織田信雄没落後、豊臣家に小身ながら仕官し、大坂の陣で戦死したと云われています。

さて、表題の千種家は此の顕理の子で織田家没落後に産まれた千種良由がどのような伝手によってか曼珠院の坊官となります。没落していたとはいえ、歴とした
村上源氏の一族ですから中院通勝などとの音信が有ったのかもしれませんね。その子孫は江戸末期までつづいていくことになります。

 千種忠顕 ┬千種顕経
 ****─1336│****─1377
      │
      └千種通治 ─千種隆通 ─千種有村 ─千種治庸 ─千種治清 ─千種忠治 ┬千種又三カ
                         ****─1522 ****─1544 ****─1556│
                                          │
                                          =千種忠基 ─川村源三郎
                                          │1525─1584
                                          │後藤基明子
                                          =千種顕理 ─千種良由 ┬千種尚堅 ┬千種尚宣 ┐
                                           ****─1615 1606─1658│1627─1710│1666─1738│
                                           富田知信子      │     │     │
                                                      ├賀茂兼友妻└座田福親 │
                                                      │      1689─****│
                                                      │      座田季時嗣│
                                                      └賀茂季典妻      │
                                                                  │
┌─────────────────────────────────────────────────────────────────┘

└千種啓迪 ─千種啓道 ┬千種啓貞
 1705─1754 1738─1815│1769─1795
            │
            └千種啓般 ─千種啓遵 ─千種讓中
             1785─1823 1812─**** 1821─****
              啓貞嗣


参考リンク:http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/tikusa.htm
参考リンク:http://www.harimaya.com/kamon/index2.html

2008/04/21/上梓
2008/04/27/修正
2008/07/31/修正(フォント等見なおし)
2009/08/28/生没年追記及び全体的見直し


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